昭和30年代後半から40年代初めにかけてのことである。
高度経済成長で沸き立つ日本の片隅で、疲弊しきった集落があった。
木曽妻籠。江戸時代、日本の大動脈のひとつ中山道の宿場として栄えたが、当時はその片鱗もなく古びた家屋が寄り添うように建つだけだった。
未来の希望が見えない集落に見切りをつけ、東京や名古屋へと旅立つ若者たち。ふるさとに未練を残しながらも妻籠をあとにする家族たち。砂山が崩れていくように、急激に進む高齢化と過疎。
「限界集落って、どういうことか知っているか?」
小林さんが口を開く。
「住む人々が未来に全く夢が持てず、精神が崩れていくことなんだ」
現在では年間六十万人以上の観光客が訪れる妻籠宿。
日本で始めての町並み保存の試みは、当時からは想像できない程に成功している。
しかし、それは住民たちが自らの手で町並みを再生させ、半世紀にわたりその景観を守り続けた結果なのである。
そして、今日も明日も同じ景観を残すために努力を惜しまない人々が住んでいる地域なのだ。
小林さんの出身は佐久市。農学校の獣医科を卒業し、吾妻村(現南木曽町)の農業指導員をしていた。
当時、農耕馬は大切な労働力。馬が病気になると小林さんが呼ばれ、心配をする集落の人々が様子を見守りに集まってくる。
そして馬が回復をすると酒盛りになることもしばしばだった。
酒が入ると気が大きくなり、酒の力を借りて見えない未来を見ようとした。
こうすれば過疎から抜け出せるに決まっている、こうなれば若者はぜったいに帰ってくる、と。
小林さんは妻籠の人達と大いに語り合ったが、それは酒の席だけのことで、一向に解決にはならなかった。
昭和34年のある日のこと、妻籠の人たちが小林さんのところにやってきた。
「64名分の名前が書いてある連判状を持って、『妻籠をなんとかしてくれ』って言うんだ。よほどの思いだったんだろう」
そして吾妻村の職員として、村の再生に向けて動きはじめる。
「まずは農業を始めてみたんだ。でも、薬研(漢方薬などを作るときに用いる器具)の底にあるような妻籠は、農業に適さないんだ」
冬の寒さは厳しい。強い風は吹かないが、谷底は日あたりが悪い。畜産も養蚕もダメ。
わずかばかりの田畑では集落を守れない。やがて町並み保存と環境保護から妻籠を活性化させることはできないかという考えにたどり着いた。
「とにかく勉強をして、村のあちらこちらを調べ上げた。役場に席はあるけれど、役場にいることは少なかったね」
山のことなら木一本、草一本まで調べた。温泉は出ないかと沢の水温を計って回った。
妻籠の歴史、そして街道の歴史も調べ上げた。昭和40年頃には、オートバイに乗って東海道と中山道を走り尽くした。
そこで見たのは、「開発」の名のもとに姿を消しつつあった宿場だった。江戸時代には1,000箇所以上もあったと言われる宿場。
その趣を残している場所はなくなっていた。
「妻籠宿を残せると確信したんだ。これは湯飲み茶碗の理論って呼んでいるんだが、300年前に陶器職人が3,000個の湯のみ茶碗を作ったとする。300年後に湯飲み茶碗がたった1個だけ残ると、それが300年前の陶器として文化財になるんだ。手つかずのまま残された妻籠宿とこの景観は、きっと文化財として残せる」
小林さんは妻籠の人々に、宿場の趣が残る景観を保存すれば、絶対に観光客はやってくると説明して回った。
「この景観を20年残すことができれば、あとは百聞は一見に如かず。妻籠宿を見たいという観光客は必ずやってくる」
最初は、小林さんのことを「古いものを残すなどいう考え方はありえない。悲観論者だ」と言い放つ人もいた。
またある人は「ここにはなにもないけれど、綺麗な景色はあるんだよ」と言い、小林さんの考えに賛同した。
住民の数だけ様々な意見があったが、妻籠宿とその周りの景観すべてを文化財として保護し、観光の村として妻籠を再生させるという思いは揺るがなかった。
そして少しずつ小林さんを協力する人たちが増えていくことになる。
昭和42年、中山道と宿場を観光資源とした、南木曽観光開発指針と中山道整備計画が策定された。
当時の観光開発の常識は、古いものは壊し新しいものを建てる「スクラップ&ビルド」。
ところが南木曽観光開発指針の内容は、小林さんが説き続けた「自然と文化財の保護を優先する」というもので、今ここで実際に住んでいる人々の生活を含め、人の息遣いまでも感じられるような保存という、今まででは考えられないような画期的なものだった。
具体的な事業としては、1. 旧中山道の整備、2. 在郷と自然の環境保護、3. 町並み整備、4. 郷土館の開館など。
そして、このうち一番効果が現れやすい郷土館の開館を優先することになった。
郷土館の候補に挙がった脇本陣(奥谷)の林家は、明治初期の建物で保存状態が非常に良かった。
明治13年に行われた明治天皇の行幸の際には小休所になるなどの由緒もある。
まずはここを観光の拠点にしようと動き出した。
「もちろん簡単なことではなかった。林家では親族会議まで開かれた。そして林家のプライドを守ることを条件に了承してもらったんだ」
時同じくして、「明治百年記念事業」に妻籠宿の再生が組み入れられた。
そして小林さんの活動が大きく動き始ることになる。
「この計画が実現すれば、妻籠に修学旅行や外国人観光客が沢山やってくるって言い続けたんだ」
取材のこの日、奥谷のあたりは修学旅行の生徒たちが溢れていた。
そして妻籠宿といえば、いまや外国人観光客の人気スポットのひとつにも挙げられている。
「嘘も百回つけば本当になるんだよ」
と言い、からりと笑う。
小林さんが言い続けたのは嘘などではない。「こうしたいんだ。こうするんだ」という強い信念である。
80歳を超えた小林さんは、今日も妻籠宿を歩く。
その背中を、次の50年を築いていく第2世代・第3世代が見つめている。
町づくりは人づくりと言われるが、妻籠宿は今日から明日へ、そして未来へ、確実にバトンが渡されている。