歴史の面影を残す宿場町 大妻籠(夏の妻籠) 妻籠_秋(秋の妻籠) 江戸と京を結ぶ中山道は、山深い木曽路を通ることから木曽街道とも呼ばれていました。 中山道69次のうち江戸から数えて42番目となる妻籠宿は、中山道と伊那街道が交叉する交通の要衝として古くから賑わいをみせていました。
時代が変り明治になり鉄道や道路が新たに造られ、宿場としての機能を失った妻籠宿は衰退の一途をたどりました。 やがて昭和になり経済成長の中、江戸時代の宿場の姿を色濃く残している町並みが見直され、ここに全国に先駆けて保存運動が起こったのです。 妻籠の人たちは町並みを守るために家や土地を、 「売らない・貸さない・壊さない」 という3原則をつくり、ここで生活しながら、江戸時代の町並みという貴重な財産を後世に伝えているのです。
木曽谷の西南端部に位置する妻籠は、南北に連なる約6kmの細長い山峡の村である。 この山峡を北流し、木曽川に注いでいる蘭(あららぎ)川とその支流の男?(おたる)川の形成するわずかな河岸段丘に、1kmにおよぶ妻籠宿(標高420m前後)を中心に、いくつかの集落が点在している。
妻籠の地には、古くから人の住んだ跡が残されている。妻籠宿周辺からは中世の遺物が発見されている。
・・・古代吉蘇路の道筋として
古代吉蘇路が開通したのは、今から1297年余前の和銅6年(713)である。そのことが『続日本記』に記されている。 これは、大宝2年(702)に官道として整備された神坂峠の東山道が険しく、通行に難儀をする事や、越後国の情勢変化により、そこへの直路として、吉蘇路を整備した記事である。
永享4年(1432)、室町幕府は美濃国守護土岐持益に命じて、御廐(うまや)材木を妻籠兵庫助に出させている。これが妻籠氏初登場である。妻籠氏の名が再び史料の上に現れるのは、それから100年ほど後の天文2年(1533)のことである。この年に、京都醍醐寺理性院の厳助僧正は、文永寺(現飯田市南原)へ下向する途中、妻籠に1泊している。当時の妻籠氏は木曽氏の一族であると記されている。
〜妻籠城(県史跡)・妻籠関所について〜
妻籠城跡は、その縄張り・位置等からみても、木曽に残る山城の中で屈指のものである。江戸時代の記録によると、その起源を木曽家仲や家村に求めている。天正12年(1584)の妻籠城の戦いは、豊臣秀吉と徳川家康の小牧長久手の戦いの一環として行われたものであり、信濃に関していえば、信濃から秀吉色を一掃するために、家康の武将菅沼定利が高遠の保科、諏訪の諏訪、飯田の小笠原の諸軍を率いて、秀吉方についた木曽義昌を攻めた戦いである。この時に、ここに立て籠った守将は山村良勝である。この戦に、良勝に従った者の中に島崎監物(妻籠・馬籠等の島崎氏の先祖)をはじめ、丸山・林・勝野・鮎沢等、南木曽地区の村役人層の先祖の名がある。 「妻籠関所」は、武田氏が天正年間(1573~1592)に、番所を設置したように、この地には、古くから関所(番所)があったとされている。この地は古代からの吉蘇路と伊那や飛騨の丁度十字路にあったからである。また、豊臣秀吉は、天正18年(1590)に天下を統一すると、徳川家康を江戸へ移封するが、その一環として、木曽義昌も下総国網戸(現千葉県)へ移すのである。そして、木曽を直轄地とし、犬山城主石川光吉を木曽代官に任命した。光吉は、この妻籠に拠って、木曽を支配していたのである。 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦の際、徳川家康に召し出された山村・千村氏等は、東山道筋を関ヶ原に向かう秀忠軍の尖兵として、木曽を平定した。彼等も妻籠城の修築を行って、この城を美濃攻めの拠点としていた。木曽氏一族の馬場昌次が秀忠に謁見したのは、この妻籠城においてであると記されている。
近世妻籠宿の成立状況を物語る史料に、妻籠の林六郎左衛門に宛てた、慶長6年(1601)木曽代官山村良候の手形(南木曽町立奥谷郷土館に陳列)がある。これは、良候が妻籠宿の半分問屋に林氏を任命した書である。木曽における中山道の宿駅創設の事業は、徳川幕府の代官頭大久保長安等、およびその命を受けた木曽代官山村良候によって、慶長6年の早い時期から進められていた。近世の妻籠宿は、江戸方の隣宿三留野宿へは1里半、京方への隣宿馬籠宿へは2里の道程があった。宿内の町並みの長さは2町30間(約270m)とされ、江戸時代を通じて変わらなかったようである。妻籠宿・寺下・在郷を含んだ妻籠村の寛永19年(1642)の家数は54軒、人口は337人(男154、女183)となっている。その内訳は本百姓(本役人)と考えられるもの30軒、門(かど)屋17軒、借家3軒、隠居1軒、他に神社・寺等があった。
中山道の宿駅は、公用旅行者の休泊と、その貨客の輸送のために設けられたものである。この宿駅業務の最高責任者である問屋には、江戸時代を通じて島崎・林氏の両氏があたっていた。 休泊施設としての本陣は島崎氏が、脇本陣は林氏が、両方とも江戸時代を通じて勤めていた。旅籠屋は『大概帳』によると、大7軒、中10軒、小14軒あった。その他に、宿の出入口には棒鼻の茶屋が、一石栃には立場茶屋があった。
宿場というと、火災と連想されるほど多い。妻籠宿もその例外ではない。事実、寛永11年(1634)の火災を始め、数多くの関係史料が残っている。防火のための施設として考えられるものにうだつ・高塀・宿場用水などがある。うだつは現在も町並みや大妻籠等においてみられる。宿場用水は前述した通りであるが、高塀は本陣のところにあった。このような宿場の構造上から設けられたものの他に、消防組織があった。
明治3年(1870)の松代会議によって、伊那街道は従来の路線を変更され、清内路から蘭を通って妻籠宿で中山道と合するようになり、伊那地方への追分として、重要視されるようになった。
妻籠の集落保存計画は、「保存と開発」の問題が多くの論議を呼びおこす中で、いわば集落保存の先駆的、実験的計画として、多くの注目を集めた。すなわち、従来の文化財保護対象を「点」から「面」へと広げ、さらにその景観ないし環境を含めて、優れた文化財として保存して行こうとする考えを、理念から実践の段階へと押し進めたものである。 妻籠は、明治以後の交通改革により、宿場としての機能を失い、見るべき産業もなく、昭和30年代高度成長の波をうけ、若者達の外部流失によって過疎化し、衰退の一途にあった。40年、観光開発としての集落保存が提起され、論議が始まった。町ではこれをうけて、学識経験者や専門家の意見を徴したうえで、地元住民に集落保存の説明会や討議を行うなど、積極的な姿勢を示し、集落保存の方向へとその態勢を整えた。
昭和43年8月、妻籠宿保存事業は、県の明治百年記念事業のひとつとして実施することになった。昭和44年を初年度とする3カ年計画で、町屋を対象とした歴史風土を守る観点から、解体復元・大修理・中修理・小修理に分類し、復原・修景を実施した。そして地元住民は、昭和43年「妻籠を愛する会」を設立し「売らない・貸さない・壊さない」の信条に基づき、地元住民を中心とした保存事業であり、観光的利用であるという考えのもとに意思統一を図り、さらに妻籠の観光開発は、自然環境も含めた宿場景観あるいは藤村文学の舞台としての景観保存以外にはありえないという考え方を確認した。 文化財に定義され、「重要伝統的建造物群保存地区」に選定(昭和51年)された。 以降、自然や街道とともに、山深い木曽谷の中の集落として宿場景観を保存している。
宿内施設は、当初の基本計画に基き、かなり整備された。昭和45年、長野県の信濃路自然歩道設置計画に伴い、宿内一部の石畳の復原、道標設置、高札場の復原、中山道の公衆便所設置、標示板の設置等を実施した。宿内の電柱は、日本ナショナルトラスト、中部電力、電電公社等の協力により、宿全体にわたり裏側に移された。現在、宿内の車の乗り入れを規制しており、自動車や観光バスの駐車場は国道256号線沿いに4カ所設けてある。防火施設工事は、国と県の補助を受けて昭和51・52年度の事業で、総工費1億円をかけて完成させた。保存事業の大きな目標が達成された。
・・・昭和46年7月宣言
妻籠住民は、保存をすべてにおいて優先させるために、妻籠宿と旧中山道沿いの観光資源(建物・屋敷・農耕地・山林等)について、 「売らない」「貸さない」「こわさない」の三原則を貫くことを決めた。現在も、妻籠住民によって住民憲章は守られている。
保存事業を進める上で、保存に深い関心 を寄せる住民によって昭和58 年2 月1 日に 「財団法人妻籠宿保存財団」が誕生。 (平成2 年、(財)妻籠を愛する会と名称変更)
江戸時代、庶民が守らなければならない禁令を道中奉行名で掲示した。
(恋野 高札場)
(財)妻籠を愛する会 妻籠観光協会